『足の小指を打つ感じ』

短編小説:『足の小指を打つ感じ』

田中 竜治(たなか りゅうじ)29歳の朝は、災難から始まる。まず起きる為にセットしたはずのスマホのアラームが鳴らない。出勤予定時間は、もう15分も過ぎている。

〈さあ、どうする竜治。どうなる竜治。〉←ちょっと茶々を入れてみる

慌てて起きると、ベッドの台座に右足の小指をぶつける。地味に痛いうえに誰にも怒れない例のヤツだ。痛がりながらも立ち上がると、パジャマのズボンを脱ぎ始める。

が、バランスを崩し盛大に尻もちをつく。あちらこちら痛いけれど時間は待ってくれない。どうにか上着も脱ぎ、クローゼットへ急ぐ。“バンッ”。一瞬何が起きたのか竜治にはわからない。右手を見下ろすと、ドアノブがそこにある。

「うそ~ぉ。」おもわず大声が出る。

クローゼットのノブ、このタイミングで取れるかぁ~? と内心ぼやきながら、あたふたとノブを元に戻そうと試みるが、そう簡単に直るはずもなく、ガチャガチャと空しい音を立てる。

「ええ~いっ!!」竜治は強引な手段に出る。

ノブが付いていた穴に指を入れて前後左右に揺すってみる。“カチャッ”。おおぉ~っ、なんと開いたではないか!! と、喜んだのも束の間。“ドササササーッ”。頭の上から降ってきたのは紙袋の束と丸められた洋服たち。

とっさに両手で目を守る。と、足元の紙袋たちを這いつくばって掻き分け、やっとの思いでワイシャツ・ネクタイ・ベルト・スーツの上下を取り出す。
ワイシャツを着てボタンをとめると、ズボンを慎重に履きベルトを締める。

すると靴下を持ってくるのを忘れていた事に気付く。再びクローゼットに戻り衣装ケースの中の靴下を取り出そうとして、ふと手を止める。

まさかケースの取っ手が取れて、靴下が出せないんじゃないだろうな。と思いながら、ゆっくりと前に引き出してみる。なんともなかった。良かった~っと思いつつ、一足取って束を広げてみると、まさかの柄違い。そんなのが、2,3回続く。今日はもうこれでいいかぁ~、と諦めかけたその時、

「おお~っ!!」奇跡的にお揃いが見付かる。

人間は学習する生き物だ。もうコケるのは嫌だ、と靴下一足を大事そうに持ってベッドまで行き、腰掛けてから慎重に履く。たぶん、こんなに慎重に靴下を履くのは、今この世で竜治だけだろう。

靴下を無事に履き、ネクタイを握りしめながら、今度は洗面台に移動する。歯ブラシと歯磨き粉を手に取る。

「やっぱり・・・。」

溜め息をつきながら、歯磨き粉が残り少ない事にがっかりする。けれど、嘆いていても仕方がないので、歯磨き粉のおしりの方を持ってぎゅ~っと絞り出す。“ブヒッ”。と音を立てて、どうにか1回分が歯ブラシの上に乗る。
ガシガシ歯を磨き、口をすすぐ。

その流れで顔を洗うと、いつもの位置にあるタオルが無い事に気付く。仕方が無い、と洗濯機の縁に掛けてあった、昨日のバスタオルに手を伸ばす。

「くっ、くさい。」せっかく顔を洗ったのに、そのタオルは匂っていた。

どうしよう、もう一度洗うか?と思ったが、もうどうでもよくなる。鏡に向かいながら寝癖を軽くムースで直すと、嫌な気分のまま、持ってきていたネクタイに取り掛かる。こちらも一発では決まらず、2,3回グリグリして、やっと決まる。トイレで用をすませると、洗面所を後にする。

リビングを通り抜けて、キッチンを目指す。少しお腹がすいていたので、冷蔵庫を開けると飲むゼリーを取り出す。リビングに戻り、チューチューやりながら、テレビをつける。これで日曜日ならいいオチなのに、と思いながら、聞き慣れた月曜日のコメンテーターの声に失望する。
で。テレビの時刻にビックリする。

「ああ。完全に遅刻だぁ。」

今日会社行くのやめちゃおうかなぁ、とも思ったけれど、根は真面目な性格の竜治。それも出来ない。テレビを消し戸締まりをして、出掛ける用意をする。

荒れ果てた寝室に別れをつげ、腕時計をして上着を身に付け、スマホを手に取ると胸ポケットにいれる。忘れ物は無いか、家の中を一瞥すると、鞄を手に家を出る。駅まで5分。猛ダッシュで駆け抜ける。

相変わらずの出勤ラッシュの満員電車にウンザリしながら、会社のある駅で降りる。40分くらいの遅刻ですみそうだ。と、竜治は先を急ぐ。すると、“ポタン”。と変な音が右の耳元で聞こえる。何事だろうと肩口を見ると、

「ゲッ!?」なんと鳩のフン。「今日は一体なんて日なんだ。」

とブツブツ呟きながら、カバンの中にティシューがあるか探すも見付からず、唯一あったハンカチで肩口をゴシゴシする。そうしてどうにか痕跡を消す。が、手元のそれがお気に入りのハンカチだった事にショックを受ける。

もう走る気力も無くなり、トボトボと会社に到着。予想通り40分の遅刻。そこだけは当たっていた。なんて、喜びも無いけどね・・・。

ちなみに竜治は、自社ビルの7階でシステムエンジニアをしている。なので、セキュリティーチェックの為、社員証がいる。そう。もうお分かりだろう。それが無いのであった。よって、受付カウンターで上司を呼び出し、やっと中に入れた。

遅刻したうえに社員証を忘れた竜治は、上司にこっぴどく怒られ・・・るならば良いのだが、この上司が異常なまでに優しい人で。

そっと微笑むと「行きましょう。」と一言。頼むから怒ってくれえぇ~、いっそ怒られた方がいい~、と心から願う竜治であった。・・・そんなこんなで帰宅時間。

会社内での仕事は特に大きなトラブルも無く、よって割愛させて頂く。しいて言うならば、ランチの時に食べたナポリタンでワイシャツにシミを付けた事。と、後輩にブルース・リーが敵を呼ぶような仕草で呼ばれた時イラッとした事くらい。朝方のワチャワチャに比べれば、そんなもの屁でもない。

このまま帰宅するのもなぁ~と、重い足取りで会社を後にする。どこかで飲んで帰るか?と思った竜治に、1件のラインが。

≪今、何処に居るの?≫

恋人の 田中 美佐(たなか みさ)26歳からだった。同じ名字なのは偶然で、夫婦な訳ではない。竜治は足を止め、歩道の端っこへ行くと、ラインを返す。

≪今、会社出たとこ≫ すると間髪入れず、
≪私も、今会社帰り≫ と返事が来る。
ちなみに、美佐の仕事は証券会社の受付嬢。

実は、この彼女と1ヶ月程前に喧嘩をしていた。理由は些細な事、でもないか。なんとなく結婚を先延ばしにしていた竜治に、美佐がキレたのだった。
しかし、ゴメンの一言もなくラインを入れてくるなんて、と少し不快感をおぼえる。

≪今から会えない?≫ と美佐。

今日一日でとんでもなく疲れていた竜治は、会うことを承諾する。気分を少しでも変えたかったのだ。行き付けのレストランで、落ち合う約束をする。その道中で、美佐が明日誕生日だった事を思い出す。

婚約指輪というのも頭に浮かんだけれど、今じゃないなと思い、無難にネックレスあたりだなと、百貨店に向かう。

付き合ってもう5年になるのか。と、ちょっとだけ美佐にすまない気持ちになる。女性が好みそうなオーソドックスな1つを選ぶと、待ち合わせのレストランに到着する。

店内を見渡すと美佐はまだ来ていないようだ。顔馴染みのワエイターに窓際のテーブルに案内されて座ると、美佐を待つ。

程なく美佐が店内に現れる。1ヶ月ぶりに見た美佐は、なんとなく綺麗で、一瞬ドキッとする。そういえば今日は朝からついていなかった。もしかして、と竜治は少しビビる。

前に座った美佐が、心持ち緊張している様に見えて、ひょっとして別れ話でも切り出されるのでは、と感じたからだった。精一杯普通を装いつつ、オーダーを聞きに来たウエイターに、竜治はビールを、美佐はウーロン茶。それと3品の料理を頼んだ。

「元気だった?」美佐がゆっくりと口を開く。
「うん。美佐は?」ぎこちない会話が続く。
「あのね。急でごめんなさい。」
「どうした?」
「私ね・・・。」
竜治の心臓が高鳴りながら、次の一言を待つ。
「私ね。赤ちゃんが出来たの。」

え~っ!? 竜治の頭の中が、一時真っ白になる。そしてくす玉がパッカ~ンと割れた様なイメージが浮かんだ。

「ほ、本当に?」竜治は嬉しい気持ちを素直に言葉に込めて聞いた。
「うん。」と、照れ臭そうに頷く美佐を。ここが公共の場でなかったら、思わず抱きしめてしまいそうなくらい愛しいと感じた。

「結婚しよう。」竜治は自然とそう告げていた。

そうして指輪の代わりにネックレスを贈ると、改めて美佐にプロポーズをした。

今日1日の不運など全て吹き飛ばす程の、最高のオチだった。それから2人は楽しく食事をし、今後のスケジュールを話し合った。

ただ、竜治の脳裏に。今朝グチャグチャにして出て来た部屋の中を、数時間後に美佐から、猛烈に叱られている自分の姿が浮かんでいたのであった。


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